特集

2020.5.22

田沼武能先生が文化勲章を受章

卒業生スペシャルインタビュー 

本学の卒業生であり、名誉教授の田沼武能先生が「文化勲章」を受章しました。
「文化勲章」は文化の日に宮中において天皇陛下から親授される勲章です。
令和元年は本学の卒業生で、名誉教授でもある田沼武能先生が受章されました。
写真家として現在も精力的に撮影を行い毎年のように写真展を開催するなど、活躍されている田沼先生にその情熱の源はどこにあるのか、お聞きしました。

受章されたご感想は?

ありがとうございます。写真界では初めての受章ということで驚いています。何よりも嬉しいのは写真に関係する皆さんが喜んでくれたことです。今回の受章は私一人のものではなく、写真に関わる全ての人を代表した受章だと思っています。今日まで私を導いてくださった皆様、出会った多くの人々のおかげだと感謝しています。

フォトジャーナリストの第一人者である田沼先生。その原点は何ですか?

昭和20年の3月、東京大空襲で東京が焼け野原になった時、家の前の防火水槽の中で3歳くらいの男の子の遺体を見かけました。おそらく、炎に追われた母親がわが子だけは助けたいと防火水槽に入れたのではないかと思われます。しかし、水は蒸発し、男の子は立ったままの姿で焼け焦げて息を引き取っていました。その姿はまるでお地蔵さまのようでした。私が16才の春のことでしたが、その時からお地蔵さまは子どもの化身だと思うようになりました。その後、世界中の子どもたちを撮影することが私のライフワークになっていますが、その子のことは今でも私の脳裏に焼き付いています。実は、中学時代(旧制)は写真家になろうとは思っていませんでした。彫刻家を目指していましたが、当時親が、写真館を営んでいたこともあり、兄が東京写真専門学校(現・東京工芸大学)を卒業していたので、私も写真の道に進むことにしました。

名誉教授として、卒業生として本学への想いは?

私が入学した当時の東京写真工業専門学校は、戦争の影響を大きく受けていました。幡ヶ谷の校舎は戦争で焼けてしまい、焼け残った小西六写真工業(現・コニカミノルタ)の淀橋工場青年学校の校舎を借りて、なんとか授業を受けることができる状態でした。雨が降ると教室の中でも傘をさして授業を受け、暗室は壁の釘穴から入る光で、隣の人の顔が見えてしまうほど明るかった。誰もが生きていくのに必死な時代だったから、先生も学生もアルバイトに大忙しで、私は東京裁判の資料の複写のアルバイトをしていました。
私の学生時代は、人を頼りにしていては生きていけない。自分でアクションを起こさなければ何事も動かない。そんな時代でした。アルバイトで稼いだお金で授業料を払い、毎日を食いつなぐので精一杯。そんな時代だったからこそ、学ぶことには貪欲でした。入学して2年目からは、「やはり、写真ジャーナリズムの世界に入りたい。何としても写真で飯が食えるようにならなければ」と必死でした。あの困難な時代が私を成長させてくれました。
今の東京工芸大学は素晴らしく立派な大学になりました。私が学んでいた当時から思えば夢のようです。校舎も設備も充実して何不自由ない環境です。しかし、大学で一番大切なのは学生たちの学ぶ心です。豊かさに甘えて学ぶことへの貪欲さを失ったのでは意味がありません。私は母校の東京工芸大学で教鞭をとることになりましたが、学生にはいつも「必要なことは盗め。あとは自分で考えろ。」と言っていました。本当に大切なことは自分で考え、自分で吸収するものです。自分の人生は自分でつかみ取る。そんな生き方を身に着けてもらえるように指導をしていました。私は本音しか言わないし、怒鳴ることもありましたが、今でも教え子たちは私を慕ってくれています。ありがたいことです。

写真家として偉大な業績を残されましたが、その道のりは?

学校を卒業してサン・ニュース・フォトス※1に入社し、木村伊兵衛※2の助手を3年間務めました。当時のサン・ニュース・フォトスは給料がいつ出るか分からない。困って木村伊兵衛に相談すると「学校を出たくらいで一人前の顔をするな。写真を教えてもらっているのだから会社に月謝を払え。」と言われました(笑)。そして何も教えてくれない。「俺の真似して木村伊兵衛が二人いてもしょうがねーだろ」。そんなことを言いながらも木村先生は、私のことを心配して雑誌『芸術新潮』の仕事を紹介してくれました。そこで「芸術院会員の素顔」という連載を任せてもらうことになったのですが、その経験が大きかったですね。教科書に登場するような学者、芸術家たちの写真を撮らせてもらい、色々な話を聞くことができました。若い時の私から見たら雲の上の人たちの言葉ですからね。一言一言が胸に刺さりました。木村伊兵衛という偉大な写真家を師匠に持つことができたこと、素晴らしい人たちとの出会いが、その後の写真家人生の大きな糧になったと思います。

※1 サン・ニュース・フォトス
報道写真家で編集者の名取洋之助が主幹となり、アメリカの綜合グラフ雑誌『ライフ』を目指して1947年に『週刊サンニュース』を創刊したが、田沼が入社した1949年には同誌は休刊していた。

※2 木村 伊兵衛(きむら いへい 1901年~1974年)
東京下谷出身。戦前・戦後を通じて活躍した日本を代表する写真家。広告、報道、ストリートスナップ、ポートレート、舞台写真など、さまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残した写真界の巨匠。

令和になった今、若い人たちに伝えたいことは?

「夢を持て。夢と希望を持って目標に向かって努力せよ。」と伝えたいですね。人間、夢を無くしたら生きていても面白くありません。今よりもっと良いものを求めて日々努力をし、自分を高めていく。それが人生を豊かにしてくれるのです。ある職人を取材した時に「自分の作った物が一人前だと思ったら、そこからは伸びない」と言っていました。いつまでも好奇心を失わず、更に高い目標にむかって行動する。それが人生の醍醐味だと思います。私はいつも「もっと見る人の心を打つ写真を撮りたい」と思っています。その目標に向かってこれからも撮影を続けていきます。

文化勲章の概要
文化勲章は、我が国の文化の発達に関して顕著な功績のあった者に対して授与される勲章です。受章者は、文化審議会に置かれる文化功労者選考分科会 に属する委員全員の意見を聴いて文部科学大臣から推薦された者について内閣府賞勲局で審査を行い、閣議に諮り、決定されます。
受章者は、毎年11月3日の文化の日に、宮中において天皇陛下から親授されます。

田沼武能 先生(たぬま たけよし)写真家

1929年 東京・浅草の写真館に生まれる
1949年 東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)を卒業
同 年 サン・ニュース・フォトスに入社。
    同時に木村伊兵衛の助手となり写真家としての人生をスタート
1950年 新潮社『藝術新潮』の嘱託写真家として文化人の肖像写真を連載
1965年 アメリカのタイム・ライフ社と契約し、世界的に活躍
同 年 「世界の子どもたち」の撮影を始める
1984年 黒柳徹子のユニセフ親善大使就任後の親善訪問に同行をはじめる
1985年 菊池寛賞を受賞
1990年 紫綬褒章を受章
1994年 東京工芸大学芸術学部写真学科教授に就任
1995年 (社)日本写真家協会会長に就任(2015年退任、現在常務役員)
2003年 文化功労者に顕彰される
2004年 東京工芸大学名誉教授に就任(現在に至る)
2019年 文化勲章受章
2020年 朝日賞特別賞を受賞

インタビュアー:吉野弘章 写真学科教授東京工芸大学芸術学部長

1965年東京生まれ。東京工芸大学大学院芸術学研究科博士前期課程修了。1980年代より写真専門ギャラリーで写真展の企画や写真家のプロデュースなどを手がける。2003年に美術市場における写真に関する研究で日本写真協会新人賞、日本写真芸術学会賞を受賞。作品はプリンストン大学美術館などに収蔵。日本写真芸術学会理事。
2020年4月1日付で学長に就任。

※所属・職名等は取材時のものです。